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今回から2回に渡って、羽根選手がポルシェでレースをしたいと考えるようになった経緯から今に至るまでを綴ってもらうことにした。F3時代は、ミハエル・シューマッハとポールポジション争いを演じ、FIA GTのフライジンガー時代は、ボブ・ウォレック、ステファン・オルテリなど、ポルシェワークスドライバーと同じチームに在籍するなど、大いなる足跡を残してきた羽根選手。その羽根選手のレース経歴とともに、今回は「ポルシェでレースをやりたい」と思った日のことを振り返る、まずはその1回目。 |
僕がヨーロッパでレースをすることを真剣に考え出したのは、95年ごろだったと思う。 日本で思うようなマシンに乗れず(自分としてはフォーミュラーがやりたかった)、なんとかGTレースには出ていたものの心そこにあらず。なにかしら目標を失ったような、不安な気持ちになっていた頃。ひょんなきっかけで、フライジンガーからル・マン24時間にエントリーすることになった。経緯は省略するが、ピンチヒッターのF3000スポット参戦と時を同じくして、自分を試すための大きなチャンスだった。失いかけていたモチベーションも一気に上がり、そんなに若くもないので自分の将来を占う上でも一つの節目だったように思う。 F3000の方は、雨のレースで終盤6位まで順位を上げたがリタイアしてしまった。自分のミスでコースアウトしてしまったわけだが、感触的には十分やっていける自信があった。そんな、ある種の自信を持って95年のル・マンに望んだわけだ。 そしてこの1週間が、その後僕をヨーロッパでのレースに誘い出す動機となった。 フライジンガーというチームは、まだ新しく93年頃からインターナショナルレースに参戦し始めた。オーナーも若く、当時は27歳(ぐらいだったと思う)特徴的なのは、ポルシェでしかレースをやらないと言いきっているところで、これもチームの背景を考えると納得させられるものがある。なにせ、西ドイツ最大(世界一だと僕は思う)規模のポルシェ専門ショップを母体としているからだ。この最大規模という言葉は、適切ではないかもしれないが、フライジンガーに行ったことがある人なら誰でも頷くはず。その辺については、また機会があれば紹介しようと思う。 レースである以上、勝つことを目指すのはもちろんのこと。それに加え、彼らはポルシェの中で最速であることにもっともこだわっている。世界的に見ても、ポルシェはレース参加台数が多い車種であるため、ポルシェの中で最速ということは、大きな勲章でもあるのだ。 フライジンガーのマシンの初対面の印象は、このマシンちゃんと走るの? といった感じだった。フライジンガーレーシングチーム自体、僕が日本で見慣れてきたレーシングチームとは明らかに違っていたからだ。 たしかに今考えてみれば、日本の方がマシンを整備することに関しては、ハイテクで繊細さがある。チーム自体の仕事は、明らかに日本の方が優れていると思うし、全体を見渡しても平均レベルは高いと思う。 しかし、僕が関心を持ったのはそこで働くドライバーの仕事ぶりだった。 フライジンガーで参戦したル・マンで突きつけられたタイムが物語るように、チームメイトは僕よりも明らかに速く、精神的にも強いことを認めずにはいられない状況だった。それは今まで味わったことのない、屈辱と落胆だった。これも後で気付いたわけだが、ヨーロッパの環境の中で結果を残していこうと思うと、ドライバーは“タフ”でなければやっていけない。ここのところが、日本との一番の差だろう。技術的な面は十分通用するが、どんな苦境に立たされても能力を十分に発揮できる強さ、これがドライバーとして最も要求される資質だと感じることになった。 強くなりたい、心底そのときに思った。そのためには、ヨーロッパでレースをやるしかない。ヨーロッパの環境の中で(ツアーの旅行でなく)レースを戦っていくことが、強くなる一番の近道だと思ったからだ。もっと早く気がついていれば良かった。 F1ほどではないかもしれないが、世界で通用するということは少なからずそういうことだと思う。今までの僕のレース人生の中で一番足りなかった部分に、やっと気が付いた。あと5年早かったらなんて思うこともあるが、こんな話しをある人にしたら、気がついただけでもマシな方だろう、なんて慰められた。 (Vol.2に続く) |
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