羽根幸浩の全日本GT選手権参戦日記
第13回
ポルシェでレースをやりたい Vol.2

photo 99年シーズンのFIA GTで、速く強くなるためのもっとも最善の方法を手に入れたという羽根選手。その年のチームメイトは、あの永遠究極のポルシェワークスドライバー、故ボブ・ウォレックだった。今回は、前回に引き続き第2回目。

photo 96年は、フォーミュラ・ニッポンにフル参戦したが、思うような結果は得られなかった。97、98年とスポットでヨーロッパのGTレースに参戦するようになった。このときは、正直な気持ちどんなレースでも良かった。そのうち、ポルシェでレースをやることに興味が沸き、その中でどこまで自分がやれるか試してみたくなってきた。

 99年は、念願のFIA GTシリーズフル参戦にこぎつけることができたわけだが、これもどれもすべて、フライジンガーと日本で応援してくれているすべての方々の協力なしにはありえなかったことだ。彼らと目標を共有することにより、僕はヨーロッパで戦う場所を得ることができた。

 こんなことを言うのは臆面もなくて恥ずかしいが、この99年に、僕が速く、強くなるための最善の方法を手に入れることができたと思っている。2000年は、フライジンガーのチーム力・ドライバーの布陣もかなりアップして、結果を残すことのできる材料を手に入れることができた年だった(ポルシェ自体は、他のマシンに比べて戦闘力的にあまり優位な年とは言えなかったが)。

 2000年は、ポルシェ勢の中で常にトップを争うことができた。FIAでのシリーズ戦は表彰台にあと一歩で届かず4位が最高位だったが、長距離レースでは、2年間で優勝を含む3度の表彰台。20個以上の初めてのサーキットをポルシェで走り、手前ミソで恐縮だが、高い順応性とレースでの強さを身につけることが少しはできたと思っている。

 少なくとも、レースの場面場面に応じて最適なポジションニングを得る術は、以前とは比べ物にならなくなった。なにせ、アメリカでの数レースも含めて、「初めて」とか「時間がない」とかいった場面にイヤになるほど遭遇してきたわけで、そのおかげで得た貴重な経験が今の僕を作ってくれたと言ってもいい。

photo FIA GTでの2001年シーズンは、前年以上の結果を求めてスタートしたわけだったが、GT3Rを投入して1年目の僕たちフライジンガーは、他のチームよりも数レース遅れをとっていた。

 タイヤが変わったことも含めて今一つ歯車が合わず、このコーナーで報告したように、前半5戦で6位以内に入ったは一度もなかった。結果、当初の契約どおり5戦で僕はチームを離れることになってしまったわけだ。チームとしても、僕に前年度以上の結果を期待していただろう。悔しいが、仕方がない。

 レースはいろいろなファクターがかみ合わないと結果につながらない。マシンやタイヤなどの巡り合わせがうまく行かなかったために、成績を出せないのはよくあることだ。

 しかし、2001年シーズンのFIA GTでは、やるだけのことはやったし、僕のドライビング能力に問題があったとは僕は思っていないし、チームも思っていないに違いない。ようするに、ただ結果が出なかっただけだ。

 しかしそこは勝負の世界。内容より結果が優先する場合があるのは、仕方がない。少なくともそういう色々と上手くかみ合わない中でレースを戦ったおかげで、得るものがあったとむしろ感謝している。

 またチャンスがあれば……。